2010年3月 9日
貴族の家格
門地二品の成立とともに、郷品三品以下の貴族たちとの格差が激しくなり、この間に太い線が引かれることになった。西晋の終わりごろには、上級貴族(門地二品)・下級貴族・上級庶民(官職に就く庶民)・下級庶民という区分ができ上がることになる。上から甲門・次門・後門・三五門などと呼ばれる。
貴族社会において家格の上下は非常に重要である。婚姻も基本的に同格の間でしか認められず、下の家格との婚姻は自らの家格を下げることになるので、その際には下の家から相応の財物が対価として与えられるのが常であった。また母親の出身家格が低い場合には、その子はたとえ長男であっても嫡子にはなれず、冷遇を強いられることになる。
唐太宗は貞観六年(632年)に家格を書物にまとめることを命じ、これによりできたのが『貞観氏族志』である。初め、山東貴族である博稜崔氏の崔民幹が一等とされ、唐李氏は三等に格付けされた。これに怒った太宗は作り直しを命じ、李氏を一等に、独狐氏らの唐の外戚を二等に、山東貴族らを三等に付けた。これは当時において李氏ら関隴集団が山東貴族に比べて低く見られていたことを示し、また本来国家による容喙を許さないはずの家格が国家によりある程度コントロールされるようになったということを示し、貴族勢力の退嬰を示す。
文化
六朝貴族にとって修めるべき教養としてしばしば挙げられるものが、儒仏道の三教、玄儒文史の四学である。
後漢代に行われていた今文学は、五経のうち一つを専門的に学ぶ学問である。これと対照的に、六朝貴族にはこの三教・四学を均等に修めることが理想とされた。
ただし、これら三教・四学が貴族たちの心の奥深い所までに届いていたかは疑問が残る。もちろん熱心な信者や求道者も多く存在したが、その一方でこれらをあくまで表層的な「遊び」あるいは「スタイル」として捉えていた貴族も多かった。特に玄学においてはその傾向が強いとされる。もし玄学の基幹となった老荘思想、特に荘子の思想を実践しようとしていたならば後述のように不老長生を求める理由はないはずである。
官品制度
漢代においては、官職の等級はその俸禄で表された。上から万石・中二千石・二千石などとあった。それが九品官人法の施行と共に九品制度へと移行、その後の梁武帝の改革により十八班制へと変化した。既述の通り、十八班制はそれまでの九品のうち、七品以下を切り捨て、六品以上を九品の正従に再編、上から一品正が十八班、一品従が十七班、最後に九品従が一班と対応している。一方で北魏の前令における官品は九品をそれぞれ正従に分け、更にそれを上中下に分ける。後令では四品以下を上下に分ける
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
貴族の家格にこのような決まりがあることは知りませんでした。
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